2013年 01月 21日
「MOT Annual 2012 風が吹けば桶屋がもうかる」の田村友一郎の作品について
たまたま友人の会田大也くんからtwitter上での田村友一郎くんの作品評のリンクが送られてきて、なんだか僕が感じたこととだいぶ違ったし、その評を読んだうえでの僕らふたりのやりとりがちょっと面白かったので、それを公開してみようかなと思います。

MOT Annual 2012についてはこちら
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/140/

ちなみに、読んだのはこちらのリンクの田村友一郎に関する部分。twitterなのに長い文章を連続でつぶやいてて大変だなあと思いました。
2013年1月13日の投稿だと思うので、現在は遡るのが大変かもしれません。ちなみにtwitterで全部追うのはしんどかったので、僕は田村くんに関する部分しか読んでいないです。風桶展全体に対していっぱい発言されているみたいですね。
https://twitter.com/arazaru

前提として、今回のMOT Annual自体が結局「美術館という場所はどういう場所で、そこで展示をするとはどういうことか」を、問うているのではないかということが根本にあって、田村くんの作品はそれに対するリアクションとしての作品であると考えての以下のテキストです。テキストといってもメールのやりとりの抜粋なのでかなり荒いですが、ご容赦ください。




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大也くんよりのメール(抜粋)

僕の考える田村君の作品の面白さは、徹底的に「フォーマット」に対する言及だと思っている。

風桶全体通底しているけど、「美術館で展覧会するってどういうこと?」ということだと思う。その中でいろんな回答があって、田村君は比較的、テーマに対する真っすぐな回答をしていると思う。

その場所、その時代、人がわざわざやって来て、空間に入り、作られた作品、展示を観るという行為。それぞれの要素を、「展覧会」というフォーマットに照らして考え直して、あらためて丁寧に脱臼させている。そして、とてもチャーミングな展示だと思った。表面的にはホラーテイストなんだけど、もはやゾンビとかがカワイく見えちゃう人がいるのと同じように、おどろおどろしい体を保っていつつも、丁寧に要素を編まれて作られていることによって、滑稽さがにじみ出ている。

アラザルもその部分は感じてたみたいだけどね。

で、どう考えても「NIGHTLESS」という作品を消失点として、今回の展示作品が構成されているかのごとく、「撮影無しの映画」というフレームと同様「作品無しの鑑賞経験」というのが成立してたと思うし、その「形式を問うという形式」について、手慣れた様子もなく、おそらく彼なりの新しいチャレンジもしているんだろうということを含めて感じることが出来た。

服部君は、アラザルの田村評、どう思う?


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服部返信メール(抜粋)

僕は、田村くんは展覧会のテーマ「making situations, editing landscapes」に対して誠実に直球で答えていると思うよ。というか、そのテーマに対するリアクションがあの作品。
キュレーションがどうとか、深川のことを真剣に調べるべきという指摘はなんか的を外しているような気が。彼はアーティストとしてテーマに反応してあの作品を作ってるんだから。だから地下と上階を別々に考えている時点で、すでに結構違和感があるなあ。

田村くんはある種のドキュメンタリー映画をつくるような感覚であの作品をつくったんじゃないかなとも感じてるよ。極めて映画映像的な作品。東京都現代美術館の展覧会のために新作をというお題を渡され、テーマを咀嚼し、その場所のリサーチをはじめる。リサーチの過程も映像で丁寧に記録していく。でもその映像は敢えて外に出さない。そのなかでの発見のひとつが浅沼稲次郎という人と浅沼が深川の地で同潤会アパートに暮らしていたこと。田村くんはそれを深川に関する主要モチーフにすることに決め、ドキュメントしていった結果があの作品なんだと思う。

映画セット製作の専門家にプロのクオリティで書き割りによる浅沼の家を再現してもらう。精巧に再現しているけれど、それは偽物だよね。写真を手がかりに、セットをつくるプロが本気で偽物をつくる。それが美術館に作品として設置される。
この家は作品?
そして、これは本物?
あるいは偽物?
美術館という制度が、この家の存在からだけでもかなりあぶり出されていると思います。この家自体はものすごい精度でつくられているし、不思議な存在感もあって、駐車場にああいう感じで人が見守るなか鎮座する静かな不気味さは、それのみで面白いよね。その感じを味わうだけでも、不思議な体験で僕はわりと好きです。ものとしてなかないいですよね、あの家。美術館の展示室の外に、「映画セット」というある種の偽物をいつも本気でつくっている人たちの手を借りてああいうものを出現させたことは、やはり美術館という場所について考える大きなポイントになると思う。つまり、「作品とは何か、美術館で展示するとはどういうことか」を直球で考え、しかも「風が吹けば~」のテーマに対しても鮮やかに応答している。

そしてそれをだめ押しをするように、深川に関する作品を現美のコレクションから田村くんが選んで、フィクションとして展示する。この行為は偽物だよね。でも、本物ってなに?美術館で見せるとはどういうことなんだろう?あそこに展示されていたものは美術館が所有している本物のコレクション作品だけど、今回のような企画展のなかでいかにも美術館の展示っぽい感じで展示されると、偽物みたいにも見えてくる。作品それぞれは正真正銘の本物なのに、これが偽物のセットみたいに見えてしまう。美術館ぽいセットでの展示にしか見えない。
では、本物とは?そして偽物とは?そしてドキュメンタリーとは?
田村くんはそのあたりの境界を、とてもうまいことあぶり出している。
あまりにも素直にシステムに対する疑問を提示しているから、非常に難しい作品に見えてしまう。単純に展覧会のテーマや状況を考えれば、田村くんの作品の面白さはわりとすっと見えてくると思うんだけどね。
本物の作品たちが偽物みたいに見えてくるってどういうこと?そして、それは非常に根本的な問題じゃない?
美術館という場所や制度が作品を支えているのか?田村くんのこの作品は、考えることがどんどん膨らむ、本当ににエキサイティングな行為だと思う。

勢いで書いているので、あまり整理されていないかもですね。
もう一度繰り返すと、あの作品は映像を主要メディアとするアーティストが、「美術館という場所で展示すること」をテーマにして直球で考え、その思考をドキュメントしてかたちにした作品であることは間違いないと思う。彼が素直に直球でリアクションしたぶん、そのドキュメントの結果が、美術館制度や美術館での鑑賞体験をもっとも深く考えさせられる作品となったということだと思う。


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大也くん返信メール(抜粋)

僕は殆ど何も知らないまま(NIGHTLESSはウェブで見ていたにせよ)あの作品を見たから、あれが映画のセットを作っている専門家の手によるものだということは知らなかったし、深い部分のコンテキストは直接作品からは分からなかったけれど、服部君が感じている恐怖とか、形式に対する奇妙さとかは、僕もそのとおりに感じた。ほとんど同じ印象だと思う。

いずれにしてもあれはとても丁寧に作られていることは確かだし、あれが「雑に作られている」ように見えるのはどういう角度から見えているんだろうなー、と思ったよ。

この状況をもう一段メタに見てみると、僕自身は「批評」っていろんなレベルがあって、とにかく作品について言葉で考えてみる行為それ自体は「いいこと」としているのね。例えその言葉が、一見、作品を罵倒していようが、雑に書かれているように見えようが、読むためにお金取ろうが関係ない。ただ、言いっぱなしというのはよくなくて、少なくとも、(母国語または外国語としてでも)その言葉を使える人が読める状況、聞ける状況になってるなら、その言葉から議論が続いていくもんだと思っています。作品鑑賞という個人の内側に閉じられた経験を、コミュニケーションに開いていくための「言葉」。

あのtwitterは、あのボリュームの読み物としては読みづらいし、そういう意味では確かにメディアセンス無いけど、まあ、広く話題が続くようにtwitterというオープンな場所で公開しているんだろうし、それを元にして服部君と僕のメールのやり取りは生まれたので、それはそれで面白い。

話を田村君の作品に戻すんだけど、かつて、アイデアル・コピーが、滋賀県立美術館で行った、ブランクーシの彫刻2つと、デュシャンのトランク3つを並べて展示したときにも、引用と真贋というテーマが暗に提出され、かつ、ミュージアムというフォーマットに対して波紋を呼んだはずなんだけど、(僕は直接見てないので言えることが少ないけど、僕はこの展覧会のラディカルさを時たま思い出します http://hccweb1.bai.ne.jp/~hda25701/copy.html
さらに、水戸芸でのナデガタも同じようなことを行っていて、それらを乗り越えるべく田村君の作品はあるのだと思う。

単なる形式の引継ぎだけではどうしても超えられない山、引き継ぐ以上負ってしまう「ああ、あれね」という評判の誹りを折り込んだ上、さらに今回の作品ではそれらの過去の作品を軽く乗り越えていると思いました。コレクション作品のタイトルだけで作られた文章も、僕はとても面白かった。(近頃古い小説を読んでいるので、多少のコンテキストのずれはこちら側で吸収する癖がついてる、というのもあるけどね。わかりやすい小説、読みやすい言葉ばかり読むと、ああいう文章を受け付けない脳みそになってしまうかもね。) そしてあのテキストが、地下の物語へと上手に引き込むための誘導路となっている構成も本当に見事と思ったよ。

ひとつ、アラザルが指摘していたのと同じ意見は、口にくわえる紙、あれは、もう少しスマートなやり方があったかもな、ということ。係員さんの説明のしかたが、とても「儀式」を行わせるような言い方ではなかったし、振る舞いそのものが手馴れていない=つまり、アーティストが丁寧にコントロールしてない、という印象はあった。

係員の振る舞いをコントロールするのは簡単なようで実は簡単じゃない。彼らが役者のように振舞えるようコントロールするか、またはそこまで期待しないか。どちらかにしないと、どうしても僕もあの紙をくわえる気にはならなかった。係員の人には責任はなくて、あれは完全にアーティストがコントロールすべき部分だし、もしその結果がああいうやり方なのだとしたら、うまく機能してなかった部分だし、その一点だけで、作品の評価を、無為に落としてしまう可能性があるかもね。ミュージアムでの鑑賞という経験にとってインターフェースは大切、ということです。
(せんだいメディアテークで高嶺さんがやった「大きな休息」展での、盲目の誘導員さんの「儀式」は、それはそれは見事でした。というか、むしろそれだけを見に行く価値があった、といっても過言ではありません)

とはいえ、僕はあの地下のセットの中に20分ぐらい独りで座ってて、(たまたまだけど)他のお客さんにも邪魔されず堪能して、非常に楽しかったんですよ。「なかなか言葉にできない体験」をするためにミュージアムに足を運ぶ、ということを考えると、田村君の作品があったあの展覧会に行けて、本当によかった。今考えると、「アートと音楽」展も含めて、全体の中で一番よかったんだよね。

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服部返信メール(抜粋)

紙を口にくわえることは、たしかにイマイチだったね。
その辺はこなれていなかった。そういうインターフェースや観客を世界に引き込む方法についてはメディアアートとかパフォーマンスをやっている人は意識が高いよね。いわゆる美術家はヘタな人が多いのかも。そして田村君はたしかにそこは弱かったと思います。

総括すると、今回の展覧会は、「美術館のあり方を考えて」アクションを起こすタイプと、「美術館だからできること」を実践するタイプに別れてるように感じました。

(以下続く)
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by midoriartcenter | 2013-01-21 17:56 | review


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